“Fascinazione Etrusca”
4 passi tra scienza, mistero e tempo:
dall’oggi, al medioevo agli Etruschi
Escursioni archeo - naturalistiche
- “ORVIETO, LA CITTÀ SOTTERRANEA”
Visita guidata alla imponente rupe tufacea su cui sorge la città. Una passeggiata alle radici della storia – tra Parco Archeologico Ambientale dell’Orvietano ed “Orvieto Underground” – alla scoperta di quanto si nasconde nel sottosuolo o si affaccia sul dirupo: colombari, cave, anfratti, un frantoio medievale sotterraneo, pozzi etruschi, la grotta dei Tronchi Fossili.
Durata: ore 4
- “ORVIETO ETRUSCA, COSÌ SOPRA COSÌ SOTTO”
Le opere che gli etruschi dedicarono alla vita, nella visita ad “Orvieto Underground” e quelle che dedicarono alla morte, nella visita alla necropoli del “Crocifisso del Tufo”
Durata: ore 3,5
- “UNA PASSEGGIATA NEL TEMPO: da Orvieto a Porano”
Un percorso (delle tombe dipinte) che si snoda a fianco dell’acquedotto medievale che riforniva l’Orvieto del XIV sec. attraverso boschi di castagno per raggiungere le millenarie sepolture etrusche. Con area di sosta attrezzata di recente costruzione. Una delle più belle viste sul versante sud di Orvieto.
Durata: ore 6
- “PASSEGGIATA ARCHEO – NATURALISTICA” Comune di Porano
A passeggio nel bosco ma ... tra gli alberi l’antica tomba della famiglia aristocratica Hescanas (fine V sec. a.C.) e l’acquedotto medievale che riforniva Orvieto.
Durata: ore 3
Informazioni e prenotazione:
Libreria Valente – Succursale Touring Club Italiano
via dei Gualtieri, 7 – 05018 Orvieto (Tr)
0763 342840
Per le altre prenotazioni vedi pagina contatti
80年代にオルヴィエートで1200もの洞窟を見つけた洞窟探険家たちの感動的な冒険体験記の一部です。
その昔、ある町で・・・まるでおとぎ話の始まりのようですが、信じられないような実際にあった古い物語の始まりです。ある町の下にもうひとつの町が発見されたのでした。
その町というのはオルヴィエート。見るからにおとぎ話の絵本から飛び出したような町です。まるで周りから断ち切られているかのように孤立して高い断崖の上に守られています。断崖はその町を3000年にも渡って支えているにもかかわらず、その栄誉ある任務を果たすにはまだ慣れていないかのように、崩壊、山崩れ、地すべり、震動と住民に常に恐れを与えてきたのでした。この断崖は凝灰岩とポゾラン(火山灰)で構成され、岩石は壊れやすい性質を持ち、爪でも簡単に削れるほどもろいのです。しかしそのお陰で彫りやすく一つまた一つと穴を開けていくことができ、最終的にはその穴の数は1000以上にも達したのでした。
この物語はある洞窟探検家たちの冒険そのものです。彼らはオルヴィエートの小さな中心街の下に、不安定に傾いたまさにその大きな断崖の中に、信じられないような地下の世界を発見したのでした。それはかつて人によって掘られ、使用されそして忘れられてしまったものです。
人の手によって掘り続けられた根気強い作業は3000年もの間続き、洞窟、通路、井戸、貯水槽を作り上げその暗闇の中に広がる迷路はなんと1200以上の数が記録されています。 すべての始まりは1970年代の終わり頃のこと、大きな地崩れが起こり、オルヴィエートの断崖に亀裂が入りました。それは有名なドゥオモからほんの数百メートルの場所でした。断崖の安全性が心配され、一番深刻だったのは水の供給が不安定になったことでした。この地崩れは町全体を警戒させ、オルヴィエートの町と町の芸術作品の生存が心配されたのでした。その頃、地元の有能な洞窟探険家のグループはすでに町の伝説に注目していました。その伝説というのはオルヴィエートの町の「下は空っぽ」と神話化されたもので、その事実にもとづく記録は何も残っていないのでした。断崖の高く外にせり出している壁には不思議な穴があいています。それは不規則な輪郭の窓で、暗くあいたその姿はまるで宇宙のブラックホールのようで、オルヴィエートの洞窟探検家にとってはたまらなく魅力のあるものだったのです。
信じられない地下の事実の発見はまさにその壁にあいた穴から始まりました。
町の公園や畑にある木に固定したロープを、断崖の周囲を取り囲むように垂らして洞窟探険家たちは町の上から断崖に沿って降り始めました。恐怖から来る緊張。緊張というのは一言で表現すると探検を特徴づける感覚です。
緊張はまず空間に降りていくとき:洞窟探険家たちは高いところからロープを使って降りていくことに慣れているものですが、しかし洞窟の中のような狭くて暗い環境では視界が限られ、方向感覚も失いがちです。しかし、ここではむしろ予告なしに強いられる空間での作業のことで、何キロも先まで見渡せる開けた視界の中で自分を空間で支えるものは細いロープだけなのです。少なくとも初めてのときは恐れを感じずにはいられないでしょう。そして緊張は断崖から洞窟の中に入り込んだときにも感じられます。通路でつながった四角い部屋には、小さな窓から光が入り込み、小さな井戸と傾斜路を備え、高さ10メートルほどの天井までいくつかの階に分かれています。一番奥の壁に現れた断崖の中心に向かって続く狭い地下道は人が四つんばいになったり横たわっても通るのが困難で、無理して入り込んでもほんの数メートルしか進むことができないのです。なぜならそこには地崩れがおきていて結局その地下道のたどり着く先がどこなのかは見つけ出すことができず疑問のまま残ってしまうのです。年月の経過と共に床にはポゾランの細かい粉が厚い層を作っていることが明らかになりました。その粉は歩くごとに舞い上がり、空中に残るのでした。窓から差し込む傾いた日の光がその粉を照らすとまるで金の帯が現れたようで、その様子はまるで洞窟の一つ一つに導いているかのようです。そしてその部屋の壁は非現実な空間に入ってきたような印象を与えます。そこは現実の世界の不安な部分だけを真似た世界のようです。多数に並ぶ奥行きが手のひらほどある小さな立方体の壁のへこみは天井から床まで壁一面をすっかり覆っています。“不死の人”の作者、ホルヘ・ルイス・ボルへスの言葉が頭に浮かびます。「この建物は神業だ」包囲され統治された無人の地を探検し:「これを建てた神というのは死者のことだ」。その矛盾に気づきまた言うのです:「これを建てた神は頭が狂ってる」。当然のことながらそこには神はいません。そしてこの建築を手がけたのも当然のことながら狂人だったわけではありません。むしろ、すべてが地下の開発基準に的確に対応していたのでした。洞窟探検家たちはここに“コロンバリ”と呼ばれる鳩小屋、有名な地下の設備を発見したのでした。それは古代オルヴィエート人によって断崖の外側の壁の裏に作られ、多数に並んだ壁のへこみの中で鳩を飼育するために特別に作られたものです。鳩の肉は今でも郷土料理の一つとして受け継がれています。
探究者の直感はそういうわけで確証が取れ始め、オルヴィエートの町の「下は空っぽ」という市民の噂に裏付けを取ることにもなったのでした。。事実、地下の様子が分かり始めてきてから、洞窟を発見する探検活動と平行して、その見つけられた洞窟の種類、掘られた時代、その他の基準によって分類し、その集められたデータを論理的に記録する仕事に取り掛かったのでした。そこで考古学者たちが洞窟探検家たちに加わり、地下に隠れて続いてきた生活、町が発展した起源、そして下と上に重なり時代とともに忘れられてしまった町の謎を明らかにするために協力したのでした。発見された洞窟の数はもはや1200を超えています。その数だけでも驚くべきですが、そのために費やされた作業は想像を絶するものです。例えば、井戸へと続く狭い通路を懐中電灯の光を頼りに進んでもそこへたどり着くことができません。そこでロープを使って上から直径1メートルほどの細い穴を降りて行きますが35メートルほど降りたところでいつ誰によって捨てられたのか分からないごみの山に行き当たりその穴もそこで終わってしまうのでした。半分ほど穴を降りていったところで暗闇の中に二つの通路が現れます。振り子運動の要領でロープを揺らして、ひとつずつその通路を探検するために入っていきますが、どちらも少し進んだところで行き止まりになってしまいます。古代の石堀職人たちは地下での重労働を継続しなかったようです。なぜでしょう?答えは見つかりません。上には下の町を無視した日々の生活のある町が存在しています。ほんの数メートルの深さのところには、ヘルメットで武装した探究者が小さな崩れから開けた通路の床を這って、不安定な足場を慎重に進んでいくのです。何世紀も続いた闇に新たに光を当てて現れる井戸の中に見えるアセチレンの薄黄色。紀元前5世紀のエトルリア人によって巧みに重ねられた凝灰岩。探検家と考古学者の共同作業はオルヴィエートの地下の洞窟の発見にだけではなく、発見したデータの科学的、系統学的な研究にも貢献しました。
断崖はすでに紀元前9世紀の頃から植民地化されていました。そしてエトルリアの重要な町、古代ヴェルズナとして栄えました。この時期に水を求めて初めて人の手によって地下が掘られました。攻略に抵抗することのできる乗り越えることのできない岸壁は町の貴重な財産です。しかし、残念なことにオルヴィエートの断崖の高台には水は存在しません。そのために井戸を掘る必要が生まれました。とても深く、そのすべての形は長方形で80x120センチ以下です。このように狭いのは地下の水脈を探すために鉛のおもりを落としていたためです。記録されたうちで一番長い壁の2つにはペドラーレと呼ばれる小さな切込みが刻まれています。それはこれらの縦の通路の内側を移動するためのもので、今でも使われています。洞窟探険家たちはそのペドラーレに足のつま先をかけてその穴を降りたり上ったりするのです。それは彼らにとっては何度も繰り返され、井戸の性質上避けることができない何度も無意識のうちに繰り返される動作なのです。25世紀前から全く同じ場所で何千回と同じ動作が繰り返されてきたと思うと感動を感じずにはいられません。エトルリア人は雨水を保存する貯水槽も作っていました。水を運ぶ地下道は広い網目のようですが、ヴェルズナが水を自給するのに成功したお陰で、紀元前264年にローマ人の手に落ちてはしまいましたが、2年以上続いた攻略に耐えることができたのでした。その後も井戸は掘り続けられてきました。町の地下には何トンものポゾランが採れる採掘場、さまざまな時代とサイズの井戸や貯水槽、トンネル、貯蔵庫、避難所、ごみ捨て用の穴が見つかりました。そのごみ捨て用の穴からは今だにルネサンス、中世期の上品な陶器の破片が見つかります。貴重な地下の構造が偶然発見された例もあります。今はカーヴァの井戸として知られていますが、中世地区にある伝統的なトラットリアのオーナーは店内のワイン貯蔵庫の壁が陥没しているのを見て、簡単に修復作業をしようと凝灰岩のブロックを動かすと、なんとその壁の後ろは空洞でした!その古い壁の向こうには何もないのでした。洞窟探検家達はその発見の噂を聞くとすぐにやって来て小さく開いた通路の先にある暗い穴の中へ先を競いながら何メートルもロープを使って降りていったのでした。降りていく優先順位は口げんかとはいきませんが、ひじの一つきで決められる大変紳士的なものでした。30メートルほど降りたところに大きな井戸が底をごみが覆った状態で発見されました。井戸の高い壁にもエトルリア時代の典型的なペドラーレの跡が発見されたのでした。しかし驚くべきことは他にもありました。その数年後、オーナーが井戸の底のごみを掃除していると、そこには少なくとも17世紀まで水が存在していたことを証明する書類が見つかったのでした。数メートル掘り進んだところで洞窟探検家は奥行き35メートル以上もあるトンネルの前に出ました。しかし、15メートルほどのところで大量の粘土によって塞がりその先の探検を阻止していました。こうやってオルヴィエートの地下探索の地図に新たに“はてなマーク”が書き足されることになるのでした。
発見で一番魅力的、感動的だったのはドゥオモ広場近くで見つかった洞窟かもしれません。そこは中世のオリーブの搾油所で、挽き臼、圧搾、火炉、挽き臼を引く係の動物のまぐさ桶、水路、貯水槽と必要なものが完全に揃ったものでした。大きな洞窟の中に組み込まれた配置は必要に応じて人が掘削した証明であり、古代エトルリア時代の均整の取れた構図を思わせます。それは穴を掘り始める段階で使用目的をすでに仮説しプロジェクトされていたことが暗示されています。ここは過去の魅力的な出来事を実際に肌で感じることのできる歴史的・考古学的に大変興味深い場所です。オルヴィエートアンダーグランドガイド付きツアーはドゥオモ広場の観光案内所から毎日出発しています。緩やかの行程をたどる1時間ほどのツアーでは断崖の中に隠された多くの洞窟のうち、もっとも大きく重要とされる二つの洞窟をご案内します。洞窟の暗さ、静けさに守られてきた古代の秘密を発見し、地下の迷路の魅力を驚きと共に感じることでしょう。
オルヴィエートの町がのっている断崖に重なった地層を描く城塞の特徴は地下を掘らなければならない環境条件にあったことを物語っていて、それは信じられないような洞窟の中の迷路、井戸、貯水槽、トンネルを作り上げたのでした。そして今日では、オルヴィエートアンダーグラウンドと呼ばれる地底都市を実現させることになったのでした。
例えば高速道路から、またはヴィテルボから国道71号を下ってオルヴィエートに向かって来るとその他に例のない特徴のある姿が遠くから目を引きます。
森に包まれた丘に囲まれた広い谷間に谷底から緩やかに持ち上がる斜面。完全に孤立するように突き出た部分にはブドウ畑が規則正しく並んでいます。頂上には神話の中の巨人に植えられたような巨大な凝灰岩のブロックが並び、滑らかでそして高い垂直の壁が町を囲み、町の中の屋根、塔、丸屋根、尖塔によって平らな表面にスカイラインを作っているのです。この、他には例のない高台はルーペ(断崖)と呼ばれています。
この断崖全体の地層は下部から3つの層に分けられます。
- 丘陵地:鮮新世時代(530万年前~180万年前)の粘土で形成され、アッペンニン山脈が陸化する前に存在していた海の底のものといわれています。
- アルボルノツ層:所々にしか見えない薄い層。湖沼・河川の沈殿物が起源と見られ、中には火山を起源とする層も含まれています。この層の名前の由来はアルボルノツ枢機卿によって14世紀に建てられた要塞のすぐ近くにもっとも多く現れているためです。
- ルーペ(断崖):約30万年の間に生まれたもので、ヴォルシーニ火山脈の最後の噴火によって形成されたものです。黄・オレンジ色の凝灰岩と多数の黒い軽石で形成され、ポゾランと呼ばれる灰色で非常に砕けやすい岩質です。
この特異な地層は地下の水の循環を整えています。それを観察することによって、なぜ何千年もの間に渡って、断崖の住民達が1200もの洞窟を掘って地底都市を作り上げるのに至ったのかを理解することができます。
凝灰岩もポゾランもそれぞれが持つ特有の多孔性の性質から割れ目が多く存在し水はけが大変よく断崖に降り注いだ雨水は下にある水を通さない粘土層の鮮新世層まで何の障害もなく落ち続けるのです。
元々、凝灰岩の大きなかたまりの周り全体、粘土質の層とその上に重なる異なる地質の層の間のちょうど境目の部分でほぼ水平に地滑りが始まりました。したがって住民のためのすべての水を得る方法を探さなければなりませんでした。言い換えると、その当時、古代オルヴィエートの住民たちは常に自分達を守っている乗り越えられない壁の外まで水を取りに行く必要がありました。断崖の上では生活に必要なものの供給が難しいのは言うまでもありません。この状況は敵に包囲された際に大変な危険性を生むことになります。町から出ることもすでに敵の手に落ちてしまった水源地へたどり着くことも不可能になってしまうからです。地滑りが起こったお陰で、壁の外に出ることが不可能になり、水の強い必要性から、念入りに雨水を保存するための貯水槽を作ったり、浸水性の層を超えて不浸性の層まで深く掘り下げて井戸を作ることになったのでした。これが、この地底都市を作り上げるきっかけのようです。
このような地下の構造は水の保存と探索に純粋に関わっています。そして断崖の持つ自然の地質の特徴も手伝い、幅広い要求に応えるべくその他のすべての洞窟を作るのにも関連してくるのです。ポゾランの密度の少ない性質と凝灰岩の崩れやすい性質がオルヴィエートの地下をより利用しやすくし、オルヴィエートアンダーグラウンドとしてダブルの町を実現させたのです。
駐車場の場所、散策コースの場所、魅惑的な素晴らしい芸術作品やモニュメントが溢れる町の見所の紹介です。
オルヴィエートの観光はオルヴィエートに到着する前から始まります。矛盾したスローガンのようですが実際この町は凝灰岩の断崖の上にあるため、遠くからその姿を眺めることから始まります。その始めの眺めは広い平野にそびえ立った海のない島、霧の中(朝立ち込めることが多い)に浮かぶ石の船が夢の海を進んでいく様でもあり、その独特の姿から14世紀の詩人ファジオ・デリ・ウベルティによって“高くて変な”町と表現されています。
その断崖のふもとに到着したら、まず駐車場の問題を解決する必要があります。
駐車場の選択肢は3箇所あります。
- フニコラーレの駐車場(広範囲):鉄道オルヴィエート駅の裏口にあります。中心街へは町の名物の一つフニコラーレ(ケーブルカー)でたった2分でアクセスできます。またフニコラーレの降り口はドゥオモ広場行きのバス停の目の前です。
- ボアリオ広場の地下駐車場(特に夏季がお勧め): 中心街と谷の中間に位置しています。エレベーターとエスカレーターで地上へのアクセスが可能です。
- カエン広場、ローマ通り、マルコーニ広場の駐車場:町の中心街にありますが収納台数に限りがあります。
町を観光するには1~2日をかけるのが理想です。当然ながら避けることのできないのがドゥオモです。 金のユリとも呼ばれる大聖堂のモザイク画のファザードはロレンツォ・マイタニによって14世紀の始めに製作されました。大聖堂の中には芸術作品が豊富で1579年にイッポーリト・スカルツァに製作された繊細な大理石のピエタ像もその一つです。ドゥオモの芸術の宝石とされるのはサン・ブリッツォ礼拝堂で、コルトーナ市出身のルーカ・シニョレッリが1499~1504年の間に手掛けたフレスコ画、「最後の審判」はイタリア絵画の中でも評価の高い作品です。
ドゥオモ広場のちょうど大聖堂の目の前、観光案内所からは毎日様々な時間帯で“オルヴィエートアンダーグラウンド”のガイド付きツアーが出発しています。
オルヴィエートの一番低い位置、カエン広場にはサン・パトリッツィオの井戸があります。緩やかな上りと下りに分かれた2本の階段で深さ60メートルの井戸の底まで行くことができます。この井戸の設計は素晴らしい技術でアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによるものです。1527年に法王クレメンテ7世の命でローマを荒廃させたカルロ5世の軍隊から逃げて非難するために製作されました。DNAの二重螺旋のように上りと下りの2つの階段はお互いが交差しないようになっていて、水を汲むために動物が直接水まで到達することができ、水を積んだ後、地上に戻る際には階段を降りてくる人や動物と会わないよう設計されています。
井戸から程近いところにパノラマが素晴らしいアルボルノツの城塞(1364年)があります。現在では公園となっていて町を囲む丘や谷を眺めることができます。
町の中心は中世のモーロの塔(訪問可能)でカヴール通りとドゥオモ通りの交差したところにあります。頂上の展望台からは住宅街とその周辺の360°のパノラマを楽しむことができます。
塔のすぐ近くには美しいカピターノ・デル・ポポロ宮殿があります。建築された時期は権力が強く活気のあった13世紀に遡ります。アーチ型窓、三連窓、ギッベリーニ狭間と美しい装飾を施された窓が見られます。宮殿内で発見された素晴らしいエトルリアと中世期の跡を完全に丁寧に修復したあと、宮殿は近代的な会議センターとなりました。
中世地区はそこからそれほど遠くない、町の西側に位置しています。特徴のある険しい断崖に沿った遊歩道では素晴らしい散歩を楽しめることでしょう。この細く急勾配のコースは古代のパトロールの巡回通路として使われていたものです。ここに並ぶ家々の間は隙間がほとんどなくまるで高い壁を作っているようで、断崖と一緒にこの町の普遍性と調和を毎日守り続けているかのようです。この遊歩道をのんびり歩いてみる価値はあります。路地で迷って思いがけない広場に出たり、思いがけない緑の広がるパノラマに出くわすのを楽しんでみるのはいかがでしょう。
その他にも旅行者を楽しませるものはまだまだあります。価値のある絵画作品や彫刻作品を何世紀にも渡って保管している教会(サン・フランシスコ教会、サン・ドメニコ教会、サント・アンドレア教会、サン・ジョヴェナーレ教会、サン・ロレンツォ・デ・アラーリ教会)です。シンプルな建築ながら豪華なルネサンス様式の建造物は灰色の玄武岩を形、サイズ、装飾が絶妙のバランスで施された黄色い凝灰岩にはめ込んで作られています。オルヴィエートの驚くべき地下を訪問するなら、洞窟の中に隠れた人々の活動を約3000年の歴史をたどって訪問することのできるオルヴィエートアンダーグラウンドや円筒状に彫られた深い井戸がエトルリア時代に遡る初期の給水設備といわれている、カーヴァの井戸があります。
オルヴィエートの町をまとめて知るには一番古い歴史、町の創設者でヴェルズナと呼ばれていたエトルリア人が生活していた証拠を訪問するのも良い機会でしょう。そこはワインの流れる場所として知られるほど豊かな町でした。ドゥオモ広場にある国立考古学博物館と“クラウディオ・ファイーナ”博物館にはエトルリア時代の遺跡が数多く保管されています。またオルヴィエートの町のすぐふもとには紀元前6世紀~3世紀の町の墓地、ネクロポリ・クローチフィッソ・デル・トゥーフォがあります。墓が正確に整列している様子から墓地を全体的に統括し平面測量であらかじめ計画を立てたものと思われます。その正確さには衝撃を受けます。そして各墓地の入り口の上枠はそこに眠る死者の名前を告げています。実際そこに刻まれた碑文には「私は・・・・・です」と名前が表記されているのです。